ハングル文字の歴史

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ハングルの原典である『訓民正音』は世宗25年(1443年)12月には既に完成していたがすぐには公開されなかった。実際に公布されるのはそれから3年後の世宗28年(1446年)9月29年に成ってからである。当初のハングルは字母28で構成されており、現代ハングルの字母24に比べると数が多い。『訓民正音』で制定された文字には実際には使われず消滅した音を含んでいる為、24字母に整理される以前のハングルを古ハングルとも呼ぶ。

ハングルはその作成当初から事大主義的な保守派から猛烈な反発を受けた。これは「独自の文字を持つことは野蛮人(日本、モンゴル、チベットなどは独自の文字を使用していた)のすることであり、(中華圏に属する)文明人の行うことではない」という両班からの反対が主であった。世宗没後には使用推進派が次々と失脚し、ハングルは諺文(언문、おんもん、オンムン)という蔑称で呼ばれるようになった。『朝鮮王朝実録』の中でもハングルは諺文と書かれており、『訓民正音』は書籍名のみを差す。なお、公的な文書には従来通りすべて漢文が使われ、科挙にもハングルが採用されるようなことはなかった。

その後、燕山君(在位1494~1506)によって徹底的なハングルの使用禁止、ハングルによって書かれた書物の焚書、使用者の処刑といった弾圧が行われた。これは暴君であった燕山君の誹謗文章が庶民の手によってハングルで書かれていたためであるという。

以降、李氏朝鮮時代を通じてハングルは「女文字(アムクル)」「子供文字(アヘックル)」、あるいは便所に入っている間に覚えられるほど簡単だという意味で「便所文字」などと呼ばれ、一部の大衆文学や啓蒙書、諺解(オンヒェ)と呼ばれる注釈書の類を除いては、ハングルが公に使われることはなかった。ただし、女性や両班以外の中流層にはある程度普及していたようである。

近代になり李氏朝鮮が崩壊するころから、わずかな知識人層の間で民族意識を高揚させるためにハングルを使おうという運動が見られるようになる。ただし、このころのハングルは正書法が確立されておらず、統一文字としての体をなしていなかった。

1888年に井上角五郎が朴泳孝の要請を受けて漢字とハングルの混交文で初めて新聞を発行した。1894年に勃発した日清戦争の結果、朝鮮が清王朝の勢力圏から離脱すると、独立近代化の機運が高まり、漢文に変わって、漢字とハングルの混交文(国漢文)による朝鮮語が初めて公用語として採用された。このときハングルは「国文」と名付けられた。

韓国併合によって朝鮮が日本の統治下に入ってからは、日本語が公用語、朝鮮の学校教育における教授用語となったが、朝鮮語も科目の一つとして採りいれられた。朝鮮語も準公用語的な地位を認められ、朝鮮語で官庁に書類を出すなど公共サービスを受けることも可能であった。また、在野においても、朝鮮語による出版、創作が盛んに行われた。しかし、日韓同祖論をもとにした同化政策が推し進められたことにより次第にその利用は制限されるようになった。朝鮮総督府は、1912年、「普通学校用諺文綴字法」を発表して学校教育での教科書に使った。これは『朝鮮語辞典』(1920年)の編纂を経て1921年に「普通学校用諺文綴字法大要」として修正された。その後、教育界などから指摘された問題点を改訂して、1930年、「諺文綴字法」を発表している。

「ハングル」という呼称は、1913年頃、周時経に始まると言われているが、明確な記録としては残っていない。この呼称が一般化したのは、朝鮮語研究会(現在のハングル学会)が『訓民正音』頒布8週甲となる丙寅の年(1926年)に旧暦9月29日を頒布記念日と定めて「カギャの日(가갸날)」と呼んでいたのを、1928年に「ハングルの日」と呼称を改めて以降のことである。

朝鮮語研究会は1931年に朝鮮語学会と名を改め、1933年の10月29日、ハングルの日の記念式において「ハングル正書法統一案」を発表した。現代の音韻体系に合わせてハングル字母を24に整理し、その綴り方について統一案を提示した。これが現在のハングルによる朝鮮語表記の基本となっている。その後、1940年には「外来語表記法統一案」を発表し、初めて外来語表記の規範を作成した。